禁競馬二日目:やっぱり私は中毒なのかも知れないと思った話
禁競馬二日目。
遅く起き、いつもなら予想に費やす時間を何気なく過ごす。
時の流れが緩やかに感じる。緩やかで、薄い。
簡素で質素。天気はいいが、気は良くない。
今日は嫌いな前期高齢者のおばはんと仕事だったことの影響は少なくないだろう。
仕事の合間。苦しくなっても、ナイターの予想があれば乗り切れるものだが、辛い時間だけがあり、そこを彷徨うように仕事をする。
面倒をみる高齢者から「昨日(の競馬)はどうだった?」と嬉しそうに聞かれる。きまずい。
いつもなら当たった、ハズレたで返せるのに、まさかやってないなんていえない。
365日競馬をしていた男が、昨日はやらなかっただなんて、何かを勘ぐられる。ましてや、今後暫くやらない予定である。
適当にはぐらかすのも面倒で、当たったよと嘘をつく。これもいつかはバレるだろう。
休憩時間になり、この違和感はより鮮明になる。
自分に“居場所がない”ような錯覚を覚える。
いつも休憩は競馬予想の再確認の時間だった。
昨夜から、朝にかけて仕上げた予想を、再度確認する作業。
それがすっぽり抜け落ちると、何をしていいか解らない。
周囲で休憩している中年女の様子を伺う。
どうやらLINEで誰かと話しているようだ。別の女はスマホアプリで時間を潰している。
漂う時間に鬱屈したものを感じる。こんな時間を過ごすなんて、最低だ!
私にとって今の職場は天国だった。
給与は同業と変わらないかやや高め。
休暇制度がしっかりしており、好きなタイミングで休暇を取りやすい。そのせいでシフトが薄すぎて文句をいいたくなることもあるが。
業務も厳しくなく、程よくやりがいもあり、人間関係だって良くも悪くも軽いので悩まない。
しかし、いざこうして競馬から離れてみると、それらがなんとつまらないものに感じるか。
競馬ありきだったのだ。
給与の良し悪しも、休みの取りやすさも、全ては競馬に通ずる。競馬をするという目的があったから私はそのつまらなさに身を委ねていても、幸福を感じていた。
競馬がなく、自由にしていいよとなると、ただ緩さと、つまらなさだけが浮き彫りになった。
自然と大井競馬場の馬柱をみている。
買わないレースをただ、ただ見つめている。
そうして休み時間は最低なまま過ぎた。
終業までは代わり映えのしない、いつもの仕事をいつもどおりこなした。
こんな毎日がこれからもつづくのか。
記録をパソコンに打ちながらそう思った。
でも、まだ大丈夫。
帰り道。意外と競馬をしなくても、ただ時間は過ぎていった。このつまらなさに慣れてしまえば、競馬なんてしなくても、案外平気なのかもしれない。
例年より涼しい夜風に吹かれながら、薄気味悪く、そう思った。