禁競馬四日目(8/16):予想行為こそ人間の真髄だと思った話
禁競馬四日目は意欲の低下を感じた。
この日は夜勤だった。競馬がなければ仕事も夜までない。とりあえず洗濯物をして、スマホでJリーグの試合の振り返り動画をみたり、時々Xでフォロワーさんの投稿をみたりして過ごしていた。
虚無に近い時間だった。ただ消費するだけの時間。結果は同じでもこれほど虚しいものはない。それでも、虚しいがそれ以上のストレスもない。ネガティブな方向で生きている実感を得る。
ふとエア競馬をしてみた。馬券を買わないが軽く予想をして、結果を参照してみる。WIN5対象レースだ。
だいたい200点で4/5の的中をすることができた。自分の選んだ馬が、後方から加速し、馬群を抜き去り一番でゴールする。爽快だ。
やはり、競馬は面白い。何故だ。どうして競馬はこんなに面白いのだろう。昨日までの鬱仕様がほんの一瞬晴れた。
予想行為こそ人間の真髄
私はそう思う。時間は不可逆的な一方通行で戻ることができない。その時間のなかで生きている我々人間。その人間が生きるということは即ち、自ら選択するということである。まだ見ぬ未来へ進んでいく。答えはない。ないから自分で選択をする。その選択のもとが予想である。
些細なことでもいい。すぐ先の未来でもいい。自分は何をして、どうなりたいのか。常に人間は予想をしている。
冗談に聞こえるかもしれないが、うんこひとつにとってもそうだ。腹の異変を感じる。それは長年繰り返してきた現象。これまでの経験から予想し、すぐにこれは間違いなくうんこだと解る。更にそこから即座に考える。
- 今うんこをする時間はあるか
- するとしてこのうんこは何か(体調不良ではないか)
- 間に合うかどうか
軽く考えただけでもこれくらいの些細な予想をしている。してないという人もいるが、それは些細すぎて無意識なだけだと思う。
もし1.で時間がなかったとする。次の予想が始まる。
- 我慢できるかどうか
- できるならどれくらいすればいいか
- できないならこの後の予定を無視してうんこをしても平気かどうか
- 我慢せずにして予定を狂わせた場合の問題はなにか
人間はうんこをするにしても、予想を繰り返しているのである。
なぜ予想をするのか、何故楽しいのか
それはより良い未来の為である。人間の生きる世界は既述のとおり、一方通行ですすむ不可逆的な時間のなかにある。その為、この先の出来事は予想はできても、確実に的中させることは不可能といっていい。
それでも人間は予想をする。この先、少しでも良い未来のために、予想をする。
先の見えない世界で、欲望の向くままに行動していれば、自然環境下なら死んでしまうし、人間社会なら、社会的に抹殺されてしまう。予想はより良く生きるための本能であり、手段でもある。
うんこはともかくとして、人は常日頃からより良く生きるために予想をするべきなのである。
しかし、例えばやる気のないOLのように、気怠い気持ちで、昨晩の残りをつめただけの弁当を食らい、誰かの組んだアルゴリズムに乗っ取って、アイドルの動画をながしみて、なんとなく得られる快楽に自分の虚無を騙しながら、選んだわけではない業務に従事し、定時に仕事を終らせ、適当に買った食材で適当な飯をこしらえて、安いビールを飲みながら安堵の中で眠りにつく。
そういう幸せもあるだろう。
しかし、それは私のような独身弱者男性には物足りない。
予想をする。なにかを成したくて予想をする。成功と失敗を繰り返す。もっとよい未来を得たくて、また予想をする。そうした予想がいつも当たるわけではないが、的中したとき。一種の素晴らしい幸福を得る。
それは人間がこの不可逆的な世界を太古から生きてきた証でもある。前後左右上下敵だらけだった時代から、より良く生きよう。より良い生活を手に入れようと考えてきた。この考える行為に予想は含まれる。
予想し、結果を求め、努力し、改善を重ねてきた。その結果こそ進化であり、進化によって研ぎ澄まされた本能として人間に備わった。
だから予想は快感で、楽しいのだとおもう。
自分と無関係な人馬の競走の結果でも、予想し、勝負を見守る。
そこで負ければ死ぬ程悔しいし、勝てば何にも勝る快楽を得られる。これは純粋な消費では得られない喜びである。
純粋な消費には限界がある
幸福には種類があり、消費もその一つだ。しかし、純粋な消費はいつか飽きるものだ。推しのグッズを集めたり、アイドルの動画をみたり、応援したりという行為は楽しいがいつか飽きる。
これは人間には耐性が備わっているからだと思う。長い年月かけて進化してきた人間は進化と共に耐性の柔軟さを手に入れた。どんな変化、環境にも耐えられるよう、進化してきた。だから同じ環境に長く浸れば飽きてくる。
必ず飽きてくる。商売はそれを飽きさせないための施策をあの手この手と必死になる。このいたちごっこの中にいると人間は絶えず幸福を感じられるかもしれないが、それは幸福を感じているのではなく、何者かによって幸福であるかもしれない環境の中に導かれているだけではないか。
そうした幸福も幸福かも知れないが、消費そのものが目的である行為には予想行為とその結果に比べれば深みがなく、得られる快楽にも限界があると思っている。
四日目にして感じるリスクの大切さ
この数日。殆ど競馬の予想をしない生活を送るなかで、心の平穏を感じている。それは確かだ。しかし、それは純粋な幸福といいきるにはまだ、足りない。
アニメや映画を見ながらも、展開の予想をしているが、一方的に流れる情報をただひたすら消費し続ける快楽はすぐに腹が一杯になる。そしてそれは幸福なのではなく、安楽な常態でしかない。それが何よりの幸福だという人もいるが、私はいまのところ、これを幸福とまではいいきれない。
やはり、予想をしているときの前向きな気持ち。挑むときの緊張感。結果へ向かっていくあの瞬間をすでに知っているから、この安楽を純粋な幸福には思えないのである。
この違い、あの幸福を感じる最大の理由はやはりリスクがあるからだ。人間の予想は様々なリスクを克服してきた歴史とそれにより獲得した能力だ。リスクを回避、克服し、よりよい生活を手に入れてきたからこそ今の繁栄がある。
幸福、快楽を得るにはリスクを克服する必要があるのである。そして、そのリスクを克服する為の手段が予想で、その本能に従うことで人間は快楽を得るのである。
恐らく私が競馬を好きなのは、そうした理由なのではないかと思った。