※仏教に対する話が出てきてますが、あくまで著者が聞いた話しやそこから筆者の独自解釈を含んだ話ですので、詳細の間違い等ご了承ください。
競馬の予想屋には価値があるのか
競馬場で競馬をしてる人の中には予想屋さんを知ってる人は多いと思います。あの小さなボックスのなかで、こんなに情報に溢れた時代に予想のトークを繰り広げて如何にもアナログに商売している人達。
その予想屋さんの的中率、回収率を正確には把握してませんが、多分結構な人が当たっていないとおもいます。
現場でみても、新聞でみても、まぁ良くて回収率120~150%くらいじゃないでしょうか。回収率120%ということは、その人を信頼して自分が買った予想のレースがハズレる確率は結構高い。
それに、ふつうに考えれば現代は新聞にも予想は載ってるし、無料で公開してる人もたくさんいるし、というか馬柱もレース映像も山程見れる時代なのだから、予想屋さんから予想を買うというのは無駄に違いないという意見に辿り着くのはある程度正論の類いになると思います。
では、予想屋さんの価値はなにか?
いきなりですが、皆さんは神社やお寺にいったことはあるとおもいます。そこでお布施を渡したりお賽銭を投げたこともあるかと思います。
そもそも、科学的根拠もない信仰に対して昔の人達は何故お金やお供え等を僧侶や神仏に渡していたのでしょうか。
まぁ、実際のところ本当に信仰していたからというのが真実でしょうが、仏教のお布施は実は修行だという話を聞いたことがあります。
自分の富を他者に与える、あるいは喜んで捨てる、これを喜捨というそうですがそうすることで修行になる。拘っていた、とらわれていたものからの執着を無くすための修行だとか。
いかにも現代的な考えからいうとそれは搾取に思えるこの喜捨ですが、その背景には貧しかった時代があるようです。
本当は人が正しく生きるには、真理にたどり着き涅槃のような状態に至るには厳しい修行が必要です。
しかし、教育をはじめあらゆるインフラも整っておらず、食うや食わずの時代にその悟りに至るための修行をするのは大変困難です。
ですから、己の仕事で得た富を、仏につかえる僧侶に納付することで修行とする。
貰った僧侶はその分労働をしなくてよくなり、衆生の人達の分まで修行でき、真理に迫る。迫った真理を衆生に説くことで還元することができるのです。そんな兼ね合いがあったとききます。
実際に、その教え云々ではなく、自分の仕事に清く、正しく没頭することは恐らく仏の道に反しないでしょうし、それにより得た富を他者のため喜んで捨てられる心持ち。
そうした姿勢はより良くいきる上で修行になり得るのは想像に容易いです。そういう意味でもこの喜捨の考えは一部、現代にも通ずる理にかなってると私は思います。
予想屋さんの価値はつまりお経みたいなもの
そして、この構造は競馬の予想屋さんにもあてはまると思うのです。
一般の人はそんな四六時中競馬予想などできません。仕事は忙しいし、家庭もあるし、友達付き合いもあるし。
そんな中でも時間をみつけて予想を極めるのもいいですが、生業として予想を極めている予想屋さんが話す予想というのはそうした時間のない人達の手助け、参考資料、判断材料になるのです。
予想屋さんの買い目は、蓋を空けると確かに結構ハズレてるのですが(現場にいくと書かれてる)、それでも話を聞いているととても参考になるものです。
この時期の馬はこういう特徴がある、この騎手の乗り方ではこの展開になると厳しいだろう、なぜこの馬は去勢したのか、この馬は何故このレースを選んだのか。
そういった新聞には無いような情報(勿論ピンきりで個人的見解もある)をひたすら話しています。そういった話を聞きながら、自分にはない視点を仕入れることができるのです。
要は予想屋さんが話してることは競馬の前提条件だったり、前評判、経験からの見解、独自に仕入れた情報です。ですので勿論それが当たるか当たらないかには直結しないこともありますが、それは長年、普通の人が触れられないレベルの競馬経験からの見解であり、情報です。まさに、僧侶が修行の果てに身に付けた教えのようなものだと思うのです。
当たらないんじゃ意味がない?
そういいたくなるのも解ります。
しかし、そんなことはありません。そのレースにどの馬が、どんな状態で出てきてるか。前回はどんなレースで、どんな展開で、どんな結果だったから今回の期待値はどうか。そうした情報を一般人が瞬時に仕入れ、まとめるのはセンスと時間が必要です。そもそも馬柱をみて把握するのも大変だと思います。
予想屋さんの収益は勿論買い目ですが、正直私はあの予想屋さんたちの買い目はおまけ(御守り)だと思っています。
なにより、あのトーク。それまで培ってきた知識、経験に価値があり、その情報に、普段は競馬に触れてない人が瞬時にあの場で触れることができる、予想屋さんはそういうサービスだと思っています。
そのトークをきき、感謝の気持ちで払うのが買い目への資金なのだとおもうのです。
いわゆる投げ銭。お布施なのです。
もし、百発百中、或いは高確率で当てる予想屋さんがいたら確かにそれはお金を儲けるといえ一点では大変価値があるかもしれません。ですが、考えてもみてください。
予想からなにからすっとばして、買い目をそのまま買う。
「それって単純作業じゃないですか?」
それは楽しくないと個人的には思うんですよね。確かに最近では回収率100%を達成して高額納税者になってるソフト開発者もいます。
競馬はそういう時代になってるかもしれません
ですが、それがしたいのなら証券会社に頼んで株を買うほうがよっぽどいいのではないでしょうか。
競馬の醍醐味、本質は何より予想で、最後に自分なりの買い目を選択して当てる。
そこに勝ち負けがあるからこそ楽しいのだと思うのです。
そうした予想の繰り返しの中で好きな厩舎、騎手、馬、競馬場ができ、思い出が重なり、かけがえのない自分だけの体験という財産になるのです。それが馬券の的中なら最高です。
ですから、予想屋さんの商品が買い目なのは揺るがない事実ですが、本当の価値はあの予想、トークにあるのだと思います。
そのトークを聞いて、買い目を信用するもよし。仮にそのトークが信用ならないなら、その予想をはずして買おうという選択もあり。現実に私も予想を聞きながら、それは違うだろうと思い奮起し、自分の買い目を勝って当てたこともあります。だからといって予想屋を嘘つきだとは思っていません。予想をしているのはスポーツですから。
ですので、聞いたことがない人は、あのボックスの前に立ち、一度トークを聞いてみて欲しいなと思うのです。
予想屋って本当にいいですよ。独特な喋り口調。トーク力。新聞やネットにはないクセ。情緒ある雰囲気。まるで、お経や説法を聞いているときのような癒しがあります。
説法を聞くとなんだか、自分の人生を思い出して、照らし合わせて気持ちが温かくなることがありますよね。そんなかんじで、予想屋さんのトークを聞きながら自分の頭を刺激させていきます。そして、いま目の前のパドックで周回する馬達がどのように走るのかを思い浮かべ、勝負に思いを馳せるのです。
そんな競馬予想の手助けに、予想屋さんはなってくれるのです。
新聞やSNSにはない予想屋さんの良さを体感しに南関競馬にいってみてください。
もし、お金に余裕があって予想を買えば、変な執着から離れて思いもよらぬ馬券を的中できるかもしれませんよ。